お昼間

by 瀬川辰馬

昼食のための蕎麦を茹でながら、ふと大学時代の恋人が「昼間」を「お昼間」と言っていて、その帰国子女らしい、微妙にずれてる言語感覚がかわいくて好きだったことを思い出した。

記憶というのは不思議なもので、深く心を動かされたはずの出来事が案外粗雑に梱包され風化しかかっていたり、或いは逆にその場に居合わせている時にはたいしたものとは思わなかったような景色の断片が、いつのまにかきれいな剥製になっていたりする。

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10月に、30歳になった。

自分の生に必要なもの。そうでないもの。
歳を重ねるごとに、その境界がはっきりとしていくように感じる。

玉ねぎの皮が1枚ずつ剥がれていくようにして、余分な可能性がひとつひとつ消えていき、少しずつ自分の生の核心に近づいている気がしてうれしく、また同時に、寂しさも嗜む程度に、少々。

皮を剥いていった先にある最後の芯が、「いいものをつくりたい」という願いであることは、どうやら間違いなく、究極的にはそれだけが僕にとっての救いであり、現実です。

「お昼間」という言葉づかいに呑気に胸をときめかせていた20歳の頃には、自分がそういう求道的な欲望を備えた種類の人間であるとは露程にも思っていなかった。
2011年の3月に大学を卒業して、地震があって、大学院に行くのをやめて、陶芸の道に進んだ。
あの春から、ずいぶん遠くまで歩いてきたんだな、と思う。

「人生」という言葉は、それ自体にどこか詠嘆的な響きが含まれていて、微妙にダサいような気もしながら使うけれど、人生とはある意味でゆっくりと失っていく過程であり、そして逆説的だけれど、その失われ方の豊かさを考えるべきものなのかもしれない。研ぎ、澄ましていく過程と言い換えてもいい。

昔読んだ発生学の本に、胎児の手はせんべいのようなかたちの肉として発生し、徐々に余分な細胞が失われていって手の形になる、発生学的に言うと手は5本の指というよりも4本の隙間といえる、という金言があったのを書きながら思い出した。

4本の隙間。
痛みは伴わないのが、人生とは違うところ。