雑記

御燈祭と引っ越しの話

装束の着付けを終え、外に出ると、既に日が暮れていた。

上り子の経験のある友人のKとUが、たのむで の声とともに松明をぶつけ合う。

今年の2月6日の和歌山県新宮市は、嵐に近いような強風に、すこし雨も混ざっていて、鳥居をくぐる頃には足袋の中まですっかり水浸しになっていた。

道すがらのスーパーで買った安酒をあおって身体をあたためながら、538の石段を登る。

着いたのが少し遅かったか、山上は上り子たちではち切れんばかりに満ち満ちていて、目がけたところに進むことも出来ないし、立ち止まることも出来なかった。

自分の膜が曖昧になるような熱気の中で、気づいたときには、もうKもUも、近くに見当たらなかった。

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それから、門が開くまでの1時間のあいだ、波が生まれて消えるように、怒声と撲音があちこちで鳴っては、夜のなかに溶けていった。

やがてゴトビキ岩で御神火が灯ると、それまで山上を包んでいた、血と、酒の匂いが焼かれて、山上がひとつの炎となった。

頭上に半月が出ていた。
その青白い仄光が その山上の炎の赤黒さとの距離が あまりに超現実的だった。

これまでの人生で味わった光景のなかで、最も美しいもののひとつだった。

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正月休みを使って、アトリエと自宅の引っ越しをした。
縁あって、房総半島のど真ん中の、山奥に。

棚田状になっている山上に母屋があり、すこし下がったところにアトリエがある。
毎日、18時か19時頃まで仕事をする。

アトリエの扉を閉めて、母屋に向かおうとする道すがら、否が応でも星空が眼前にひろがる。

ほんの数秒のことだけど、毎日、すこし立ち止まってそれを眺める。
意図してそうするというよりは、自然に足が止まる。

自分がほんの数分前まで、夢中になっていた作業と、その光との間にある距離について考え、毎日ほんの少し、かなしみを覚える。

それから、その日の夕飯を食べに、母屋への階段を登っていく。

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フィレオフィッシュ

祖母の訃報を聞いてまず頭を過ったのが、フィレオフィッシュのことだった。

小学校に入学する前だから、僕が4歳とか、5歳の頃だったと思う。

当時、祖母は祖父と保土ヶ谷のマンションにふたりで暮らしていて、
僕ら一家が住んでいた伊勢佐木町から近かったのもあり、
母になにか用事がある週末には、祖母の家に預けられることが多かった。

陽当りのいい部屋で、ラタンのフレームに花柄の生地が貼られたソファーが居心地がよかった。
背もたれから、伊勢佐木町の家では嗅いだことのない種類の匂いがした。

お昼時になると、祖母と僕は駅前のマクドナルドまでよく一緒に歩いた。
きっとハッピーセット(当時の商品名はまだ「お子さまセット」だったように思う)に付いてくる、いま思えば半日で飽きてしまいそうなプラスチックのおもちゃが欲しくて、僕が連れてけとねだったのだと思う。

カウンターで注文を済ませて、二階の窓側の席で食べることが多かった。

窓からすぐそこに線路が見えた。線路の脇には桜の木が植わっていた。

記憶のなかの祖母は、その窓際のテーブルの向かい側で、静かな笑顔を湛えながら、いつもフィレオフィッシュを小さく齧っている。

料理がとびきり上手で、肉よりも、どちらかと言えば野菜や魚の方が好きなひとだった。

おまけのおもちゃを今か今かと待つ孫の手を繋ぎとめながら、メニューを眺めては。
きっといつも、消去法でフィレオフィッシュという結論に辿り着いたのだろうと思う。

なにが食べたいとか、どこに行きたいとか、誰と会いたいとか。
自分の願いを強く主張するようなタイプのひとではなかった。

もし健康な身体で、時間もたっぷりあって、なにをしてもいいんだよと言われたら、祖母はなにをしたいと答えたかな、と考える。
―たぶん、少し困ったような、照れ笑いを浮かべるだけのような気がするけど。

その生涯の殆どを、自分の愛するひとの願いを静かに肯定することに費やした、棺に眠る祖母の顔を眺めて、美しいなと感じた。

そして、そういう人間だけが知る、いのちの深さというものがあるのだろうな、とも。

1931年の日本に生まれるということは、きっと相当にタフなことで、ひとには言えないような苦労も沢山してきたのだろうと思う。只々、安らかに眠って欲しいと思う。

おばあちゃん、本当におつかれさま。

具体的な祈り

祈るひとの掌は、なぜいつも閉じられているのだろう。

ときには両掌をつき合わせて、ときには両掌を握りあって、ときには両掌を地について。

それは聖なるものへの服従・無抵抗を現している、という様なことを言う人も居るし、
それは右手と左手という極をシンメトリーに重ねることで(ある抽象的な)和合を現している、という様なことを言う人も居た。

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自分の紡ぐうつわが、美術作品なのか、それとも用具なのか、今の僕は明確な答えを持ち合わせていない。

それは日本語というメッシュに掛けられるなかで規定されていく種類のもので、正直言ってモノが産まれる現場自体にはあまり関係がないことのようにも思われる。
美術作家と呼ばれようが、ちゃわん屋と呼ばれようがどちらでも構わない。そういう駆け引きに、足を取られていたくない。

ただ、出来る限り澄んだうつわを作りたいと魂の底から願うし、そのための現実的な工夫を惜しみたくない。

そうして生み出されたうつわたちが、動植物たちのいのちを静かに、たしかに抱き留め、見知らぬ食卓を、そのいのちの行き来の場を、僅かでもうつくしいものに近づけるような働きをして欲しいと願う。

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自分は、手を動かすことで祈ろうとしているのかな、と思う。

それは、どこに、とか、なにを、という類の祈りではないのだけれど、
2本の腕と10本の指を動かしながら、高くて遠いところにあるものを肯定しようと試みている。

美術にしろ工芸にしろ、相対したとき思わず息をするのを忘れてしまうような種類のうつくしさを備えたオブジェクトというのは、そういった願いの嵩さ自体が結晶化しているようなものなのだと思う。

うつくしいモノとは、みな、具体的な祈りなのかもしれない。

The Blues And The Abstract Truth

1961年2月に録音されたオリバー・ネルソンによるジャズアルバム”The Blues And The Abstract Truth”には『ブルースの真実』という邦題が付いているが、これはあまり優れた訳だとは思わない。
例えば、1966年の作品”Sound Pieces”に収録されている”Patterns”の、揺らぎながら循環をつづけるあのテーマの響きのように、彼の音楽のなかでは、透徹した幾何学と、人間的な表情の豊かさとが、自然なありかたで同居している。

それは、ブルース<の>真実というよりは、意思を持って、ブルース<と>真実、と呼ぶべき並行のように思える。

うつわという道具の根源的な機能を、自分なりに言い表そうとするとき、彼の矛盾したその音楽が頭のなかで鳴る。

うつわは、それを握るものの悦びのためにあるのと同時に、それに抱きとめられるものへの祈りのためにあると思う。

うつわには、生きているものは入れられない。
植物にしろ動物にしろ、自然から刈り狩られることで、はじめてそれをうつわのなかに抱きとめることができる。ひとは日に三度、そのちいさな棺を握ることで、自らの生を繋いでいく。

僕は、食べるもののためだけにつくられたうつわを傲慢だと思うし、また食べられるもののためだけにつくられたうつわを寂しいと思う。

あたたかでうつくしい食卓に感じる、ひととしての生の悦び。
熱量となって循環される、抱きとめられた生への公正な畏敬。

ブルース・”アンド”・アブストラクト トゥルース

それらが自然なかたちで並行する、ひんやりとあたたかなうつわをつくりたい。

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瀬川辰馬 陶展 “The Blues And The Abstract Truth”

Gallery Forgotten Dreams
〒135-0021
東京都江東区白河1-3-21 2F

3月26日(土)~ 4月17日(日)/ 12:00 ~ 19:00(月・火休)

作家在廊日
3/26(土) 17:00〜19:00
4/6(水)  15:00〜19:00
4/14(木) 15:00〜19:00