うつわと言葉

by 瀬川辰馬

作家として活動を始めたばかりの頃、国内でも指折りの有名ギャラリーの店主の方と、少しだけお話をさせて頂く機会があった。
〇〇さんがこれは良い物だと思うときの判断の基準はどんなものなんですか?と質問をすると、良い物は道端に転がっていても良いと分かる、と返ってきた。
本心なのだろうし、共感できる部分がなくもないのだけど、でもそんなシンプルなフォームでこんな位置まで来れる業界なんだと思って内心はけっこう衝撃を受けた。

なぜうつわの周りにはこんなにも言葉が少ないのだろう、といつも思う。

特に日本は「民芸」という福音であり同時に呪いでもあるコンセプトが未だにマーケットの地下に横たわり強い磁場を放っていて、失語状態をある種のイノセンスとして肯定的に捉える風向きがあるように感じる。

言葉にはならない物の質というのは勿論あるし、適当に貼り付けられた言葉が物の質をむしろ濁らせてしまう場合も多々ある。(例えば「静謐」というワードはもう界隈で出禁にした方がいいと思う。大切な概念だが乱用の結果、貼るだけダサいステッカーのような言葉になってしまった)

しかし、私は良いなと感じる作品に出会ったら、それがどんな考えやフィーリングのもとに生まれたのかを聞きたいと思うし、もし自分が作品を紹介する立場だったなら、能力を尽くしてそれを補いたいと思う。
洗練された言葉である必要はない。その人にしか発することが出来ない言葉でさえあればいい。要するに、個人的で実感に基づいてさえいれば。

そういう言葉がうつわの周りにもう少し増えたら、豊かなのになあといつも思う。

それは、三谷龍二さんとかが言う「批評の不在」みたいな問題系とは少し意識が違うと思うのだけど(私がもっと充実した方がいいと思うのは批評というより「ライナーノーツ」である)、大目的としては重なる部分もそこそこあるのかもしれない。どうなんだろ。

しかし確信を持ってふたつ言えるのは、良いものは良いというトートロジーでは、うつわを愛する人の数は減りはしないだろうが特に増えもしない、ということと、言葉の無いところに歴史は積み重なっていかない(換言すれば文化にならない)ということだ。

そういう意味で、うつわノートは「言葉を持っている」本当に稀有なギャラリーだと感じる。というか名が体を表しまくっていて店名が既にうつわ+言葉である。
松本さんの仕事ぶりを尊敬しているし、こうして一緒に仕事が出来ることを改めて光栄に感じる初日だった。

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