新秋名果

by 瀬川辰馬

この数日、東京は水彩絵具で描いたような秋晴れがつづいていて、最寄りのコンビニにたばこを買いに行くつもりでちょっと外に出ると、日差しと風があまりにも気持ちよく、つい二つ三つ遠くのコンビニまで散歩でもしようかなという気分になってくる。
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尾崎翠の詩に「新秋名果」という作品がある。
気鋭の女性作家として大正、昭和初期を東京で生き、薬物依存からくる幻覚症状を患った後は家族の手で半ば強制的に故郷の鳥取へと連れ戻され、以降老衰で亡くなるまで作家としてはほとんど沈黙を貫いた彼女が、郷里へと連れ戻されたばかりのころに鳥取の名産である二十世紀梨について書いた短い詩だ。

“ふるさとは 映画もなく 友もあらず 秋はさびしきところ。
母ありて ざるにひとやま はだ青きありのみのむれ われにむけよとすヽめたまふ 「二十世紀」 ふるさとの秋ゆたかなり。
むけば秋 澄みて聖きふるさと。
はつあきのかぜ わが胸を吹き わが母も ありのみの吹きおくりたる さやかなる秋かぜの中。”

ありのみ、とは梨のことを指す方言で、「なし」では縁起が悪いので「あり」の実と呼んでやろうという風習に由来することばだそうだ。

青春が終わり、長過ぎる秋の戸口に立つ彼女に差し出された二十世紀梨に感傷的な陰影を感じとってしまう一方で、それを眺める彼女の眼差しにはどこか乖離した感じのする透明な穏やかさがあって、美しい詩だなと思う。

先日観に行ったライブで、寺尾紗穂さんがこの「新秋名果」に曲を付けたものを演奏されていた。
録音としては前作「たよりないもののために」に収録されていて、以前から好きな曲ではあったけれど、秋晴れの夕べに礼拝堂で聴くその演奏は本当に素晴らしく、ことばのひとつひとつが洗いたてのように輝いていた。

二つ三つ先のコンビニまでゆっくり歩く道すがら、この短い詩のことを思い、梨の香りのことを思い、そのうちに少しずつ東京の晩秋が更けていく。