ローリング・トゥエンティーズ

by 瀬川辰馬

年末らしく人と会う機会が多く、話しながら一年を振り返っていると、今年自分に訪れた最大の変化は音楽を再び聴くようになったことだなと思う。

きっかけは、いまは離れたところに住む古くからの悪友に会った際に、少し遅れた誕生日プレゼントに、とpeter gallwayのソロをレコードでプレゼントしてもらったことで。
レコードプレーヤー持ってないよ、と伝えると、知ってる、と返ってきたので、要するに「お前もレコードプレーヤー買え(より精確には「いまのお前にレコードプレーヤーが必要なことが俺には分かっている」)」というけっこう押し付けがましいプレゼントだったのだけど、彼がそういうものの勧め方をするにはそれなりの理由があることは長い付き合いのなかでよく分かっているから、その日のうちに素直にプレーヤーを買って帰ることに。

おっかなびっくりターンテーブルのプーリーにベルトをかけて(電動ろくろと同じ仕組みだな、と思う)、A面を上にして針を落とす。

peter gallwayは僕も好きなシンガーで、プレゼントされた72年のアルバムはすべての曲を口ずさめる程度には聴いてきたはずなのに、果たしてアナログで聴くそれは、殆ど魔法のように別物だった。
彼の作品は、パーソナルな感じのソングライティングと、程よく都市的に開けた感じのアレンジが居心地良さそうにルームシェアをしているような、音楽作品として小さすぎず大きすぎない真摯な「サイズ感」が魅力なのだけど、レコードで聴くことによって初めて彼の音楽を原寸大で聴けた、と感じた。
それはアナログメディアだけが備え持つアウラとかそういうオカルティックな話ではなく、極めて具体的に音質がCDに比べてよく、特に演奏の空間情報が段違いに高解像度になったことが大きいのだと思う。

レコードは音楽の波形をそのまま物理的に焼き付けたアナログメディア、CDはその情報を間引いてデジタル化したもの、spotifyとかapplemusicとかのサブスクとかは更にCDの1/4くらいのビットレート(情報量)だから、原理的に言ってもレコードの方が圧倒的に音質がいいのは間違いないのだけど、そういう定量的な説明で想像するような差異以上の圧倒的な「質」としての別物さがあるものだな、と。
凡庸だけど、フィジカルな実感としてそう思う。

そこから先はもう、転がる石のように。これまで世話になってきた音楽たちをアナログで買い直す日々。

ジム・オルークのEurekaは水平方向に微睡むようなイメージだったけど、音響的には天地の感覚が結構あるということ(そしてそれによって”Hello Hello can you hear me?”というリリックがもたらす情感は全く異なるものになること)、ジョニ・ミッチェルのblueのオープニングナンバーのギターは強すぎるメンソールのように清涼感というよりは殆ど「痛み」であること、フルトヴェングラーのバイロイト第九の末尾は雪崩のような音楽というより、音楽的な雪崩そのものであること。

アナログで聴いて気づけたことというのは枚挙に暇がなく、サブスクによってこの数年飼い殺しのような状態になっていた音楽への愛情が、再び息を吹き返したような気持ちでいる。

悪友に、レコードの豊かさを教えてくれたことへの感謝とともにそうメールすると、サブスクってのはどこまで行っても精巧なダッチワイフみたいなもんだから、と返ってきた。
今度会ったら、一緒に新宿にレコードを掘りに行って、ベルクでビールを飲みながら音楽の話をしようと思う。

あと数日で始まるローリング・トゥエンティーズ。
俺は文字通りこのくるくる回る黒い円盤で乗り切る。あとろくろ。