具体的な祈り
by 瀬川辰馬
祈るひとの掌は、なぜいつも閉じられているのだろう。
ときには両掌をつき合わせて、ときには両掌を握りあって、ときには両掌を地について。
それは聖なるものへの服従・無抵抗を現している、という様なことを言う人も居るし、
それは右手と左手という極をシンメトリーに重ねることで(ある抽象的な)和合を現している、という様なことを言う人も居た。
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自分の紡ぐうつわが、美術作品なのか、それとも用具なのか、今の僕は明確な答えを持ち合わせていない。
それは日本語というメッシュに掛けられるなかで規定されていく種類のもので、正直言ってモノが産まれる現場自体にはあまり関係がないことのようにも思われる。
美術作家と呼ばれようが、ちゃわん屋と呼ばれようがどちらでも構わない。そういう駆け引きに、足を取られていたくない。
ただ、出来る限り澄んだうつわを作りたいと魂の底から願うし、そのための現実的な工夫を惜しみたくない。
そうして生み出されたうつわたちが、動植物たちのいのちを静かに、たしかに抱き留め、見知らぬ食卓を、そのいのちの行き来の場を、僅かでもうつくしいものに近づけるような働きをして欲しいと願う。
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自分は、手を動かすことで祈ろうとしているのかな、と思う。
それは、どこに、とか、なにを、という類の祈りではないのだけれど、
2本の腕と10本の指を動かしながら、高くて遠いところにあるものを肯定しようと試みている。
美術にしろ工芸にしろ、相対したとき思わず息をするのを忘れてしまうような種類のうつくしさを備えたオブジェクトというのは、そういった願いの嵩さ自体が結晶化しているようなものなのだと思う。
うつくしいモノとは、みな、具体的な祈りなのかもしれない。