雑記

具体的な祈り

祈るひとの掌は、なぜいつも閉じられているのだろう。

ときには両掌をつき合わせて、ときには両掌を握りあって、ときには両掌を地について。

それは聖なるものへの服従・無抵抗を現している、という様なことを言う人も居るし、
それは右手と左手という極をシンメトリーに重ねることで(ある抽象的な)和合を現している、という様なことを言う人も居た。

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自分の紡ぐうつわが、美術作品なのか、それとも用具なのか、今の僕は明確な答えを持ち合わせていない。

それは日本語というメッシュに掛けられるなかで規定されていく種類のもので、正直言ってモノが産まれる現場自体にはあまり関係がないことのようにも思われる。
美術作家と呼ばれようが、ちゃわん屋と呼ばれようがどちらでも構わない。そういう駆け引きに、足を取られていたくない。

ただ、出来る限り澄んだうつわを作りたいと魂の底から願うし、そのための現実的な工夫を惜しみたくない。

そうして生み出されたうつわたちが、動植物たちのいのちを静かに、たしかに抱き留め、見知らぬ食卓を、そのいのちの行き来の場を、僅かでもうつくしいものに近づけるような働きをして欲しいと願う。

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自分は、手を動かすことで祈ろうとしているのかな、と思う。

それは、どこに、とか、なにを、という類の祈りではないのだけれど、
2本の腕と10本の指を動かしながら、高くて遠いところにあるものを肯定しようと試みている。

美術にしろ工芸にしろ、相対したとき思わず息をするのを忘れてしまうような種類のうつくしさを備えたオブジェクトというのは、そういった願いの嵩さ自体が結晶化しているようなものなのだと思う。

うつくしいモノとは、みな、具体的な祈りなのかもしれない。

The Blues And The Abstract Truth

1961年2月に録音されたオリバー・ネルソンによるジャズアルバム”The Blues And The Abstract Truth”には『ブルースの真実』という邦題が付いているが、これはあまり優れた訳だとは思わない。
例えば、1966年の作品”Sound Pieces”に収録されている”Patterns”の、揺らぎながら循環をつづけるあのテーマの響きのように、彼の音楽のなかでは、透徹した幾何学と、人間的な表情の豊かさとが、自然なありかたで同居している。

それは、ブルース<の>真実というよりは、意思を持って、ブルース<と>真実、と呼ぶべき並行のように思える。

うつわという道具の根源的な機能を、自分なりに言い表そうとするとき、彼の矛盾したその音楽が頭のなかで鳴る。

うつわは、それを握るものの悦びのためにあるのと同時に、それに抱きとめられるものへの祈りのためにあると思う。

うつわには、生きているものは入れられない。
植物にしろ動物にしろ、自然から刈り狩られることで、はじめてそれをうつわのなかに抱きとめることができる。ひとは日に三度、そのちいさな棺を握ることで、自らの生を繋いでいく。

僕は、食べるもののためだけにつくられたうつわを傲慢だと思うし、また食べられるもののためだけにつくられたうつわを寂しいと思う。

あたたかでうつくしい食卓に感じる、ひととしての生の悦び。
熱量となって循環される、抱きとめられた生への公正な畏敬。

ブルース・”アンド”・アブストラクト トゥルース

それらが自然なかたちで並行する、ひんやりとあたたかなうつわをつくりたい。

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瀬川辰馬 陶展 “The Blues And The Abstract Truth”

Gallery Forgotten Dreams
〒135-0021
東京都江東区白河1-3-21 2F

3月26日(土)~ 4月17日(日)/ 12:00 ~ 19:00(月・火休)

作家在廊日
3/26(土) 17:00〜19:00
4/6(水)  15:00〜19:00
4/14(木) 15:00〜19:00