雑記

573℃

岐阜で陶芸の勉強をしていた学生時代、その授業の殆どが実習だったが、週に1度、釉薬や陶土の科学的な性質を学ぶ、純粋な座学があった。

日差しの入らないリノリウム床の教室で授業は行われ、学校に併設された窯業科学センターに務める研究者が教鞭を執った。
背が高く、古い形のメタルフレーム眼鏡を掛けた中年の男で、その繊細そうに響く小さな声が、いかにも研究者らしかった。
恐らく彼の職能上の興味はその教室から(あるいはその小さな地方都市からも)遥か遠いところにあったのだろうが、彼は職業上の義務として授業を遂行したし、我々もそれを義務として聴講した。

ある日のその授業で配られたハンドアウトに、こういう記述があった。

“粘土中に含まれる石英の結晶構造は573℃を境に変化を起こし、低温型のα-石英から高温型のβ-石英に転移する”

水に浸せば柔らかくなる粘土が、その温度を境に、陶というマテリアルへと不可逆的に変化を遂げてしまう。

その事実はとても新鮮で、奇妙なほど具体的に定義された573℃という数字と相まって、深く印象に残っている。

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今暮らしている自宅兼アトリエは、元々はYさんという陶芸家がその晩年に自分のために設えたものだ。

数年前にYさんが亡くなり、売りに出ることになったところに縁あって出会い、集落全体が低山にぐるりと囲まれた、貝のなかのように静かなその環境に惹かれて、見に行った日に移住を決めた。

生前のYさんとの面識は一切なく、移住してから、その人となりを周囲の人々から少しずつ知ることになった。

移住を決めて間もないころだったと思う。
ある展示で在廊した際に、ギャラリストのIさんとの会話のなかで移住先の話題になり、Iさんが若かりし頃のYさんに雑誌の取材で会いに行ったことがあるということが分かり、お互いに声をあげて驚いた。

後日、Iさんはその時の取材記事を手渡してくれてた。

1975年に発行されたその工芸雑誌の紙面には、27歳のYさんの姿があった。

木こりみたいにがっしりとした体格を、どこか言い訳するような感じで小さく丸め、秋草の中で内面的にはにかむ青年。
偶然にも、当時の僕も、27歳になったところだった。

インタビューの中でYさんは、
自分の生まれ育ったこの地に、窯を造る準備をしているところなんです
と語っていた。

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Yさんから受け継いだアトリエには、三十数年前にYさんが自らの手で築窯した穴窯がある。

仕事の合間に時間を見つけては、この1年、窯の手入れを進めていた。

砂に塗れた窯を掃き清め、その全体像を手探りで確かめていく時間は、陶芸家のそれというよりは殆ど考古学者のようで、どこにも見当たらなかったダンパーを地中から掘り当てた時には、喜びと安堵でひとり声をあげて笑ってしまった。

Yさんの遺した穴窯を手探りで理解していく作業は、ある意味ではYさんという人間を理解する作業でもあったように思う。
ロストルの大きさや、ダンパーや色見の位置の設計を通して、彼が作家としてどういう種類の美しさを手に入れようとし、またなにを必要のないものとして手放していったのか、感じ取れるような気がした。

窯場で作業をしていると、様々なひとに声を掛けられた。

左党だったYさんがつくる酒器が、いかに優れたものであったかを語るひと。
アトリエで行われた作品展を目当てに、東京からのバスツアーが組まれたときの様子を得意げに語るひと。
高校の後輩で、Yさんの後を追いかけるように自身も陶芸家となったひと。

彼の周縁に遺された、ディティールに富んだ様々なピースは今も生暖かく脈打ち、ただYさんという中心だけが、真空のような沈黙のなかに在った。

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年末、手直しした穴窯で、初窯を焚いた。

これまで電気窯での制作経験しかない僕にとって、それは未知の地へと踏み出していくタフな旅であると同時に、土を焼くということの原点への帰郷であったようにも思う。

冷めるのも待ちきれず、炉内から鉄棒で小さな花器を引っ張り出し、光のなかに抱きとめたそのときに。
ある不可逆的な変化が自分に訪れたことを直感的に理解した。

近似値で言葉にするならそれは、自分が使い古していた辞書の大事な頁の内容が、ある朝突然に書き換わってしまったようなものかもしれない。
これまで自分にとって重要な意味を持っていたはずのテクストたちはその明瞭な意味を失い、代わりにこれまでうまく読むことの出来なかったテクストたちが、唐突に輝きを帯び始める。

573℃を超えた石英が、アルファからベータへと転移するように。

唐突に授けられた、暴力的なまでに不可逆なこの変化の跡に、今はただ立ち尽くしている。

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初窯をはじめる日の朝、火の神様への祝詞の代わりに、長田弘のファイアカンタータという詩を窯前で朗読した。

火の祝福と畏敬を詠ったその美しい詩は、このようにして結ばれる。
 
三本の蝋燭が、われわれには必要だ。

一本は、じぶんに話しかけるために。
一本は、他の人に話しかけるために。
そしてのこる一本は、死者のために。

 

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御燈祭

装束の着付けを終え、外に出ると、既に日が暮れていた。

上り子の経験のある友人のKとUが、たのむで の声とともに松明をぶつけ合う。

今年の2月6日の和歌山県新宮市は、嵐に近いような強風に、すこし雨も混ざっていて、鳥居をくぐる頃には足袋の中まですっかり水浸しになっていた。

道すがらのスーパーで買った安酒をあおって身体をあたためながら、538の石段を登る。

着いたのが少し遅かったか、山上は上り子たちではち切れんばかりに満ち満ちていて、目がけたところに進むことも出来ないし、立ち止まることも出来なかった。

自分の膜が曖昧になるような熱気の中で、気づいたときには、もうKもUも、近くに見当たらなかった。

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それから、門が開くまでの1時間のあいだ、波が生まれて消えるように、怒声と撲音があちこちで鳴っては、夜のなかに溶けていった。

やがてゴトビキ岩で御神火が灯ると、それまで山上を包んでいた、血と、酒の匂いが焼かれて、山上がひとつの炎となった。

頭上に半月が出ていた。
その青白い仄光が その山上の炎の赤黒さとの距離が あまりに超現実的だった。

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フィレオフィッシュ

祖母の訃報を聞いてまず頭を過ったのが、フィレオフィッシュのことだった。

小学校に入学する前だから、僕が4歳とか、5歳の頃だったと思う。

当時、祖母は祖父と保土ヶ谷のマンションにふたりで暮らしていて、
僕ら一家が住んでいた伊勢佐木町から近かったのもあり、
母になにか用事がある週末には、祖母の家に預けられることが多かった。

陽当りのいい部屋で、ラタンのフレームに花柄の生地が貼られたソファーが居心地がよかった。
背もたれから、伊勢佐木町の家では嗅いだことのない種類の匂いがした。

お昼時になると、祖母と僕は駅前のマクドナルドまでよく一緒に歩いた。
きっとハッピーセット(当時の商品名はまだ「お子さまセット」だったように思う)に付いてくる、いま思えば半日で飽きてしまいそうなプラスチックのおもちゃが欲しくて、僕が連れてけとねだったのだと思う。

カウンターで注文を済ませて、二階の窓側の席で食べることが多かった。

窓からすぐそこに線路が見えた。線路の脇には桜の木が植わっていた。

記憶のなかの祖母は、その窓際のテーブルの向かい側で、静かな笑顔を湛えながら、いつもフィレオフィッシュを小さく齧っている。

料理がとびきり上手で、肉よりも、どちらかと言えば野菜や魚の方が好きなひとだった。

おまけのおもちゃを今か今かと待つ孫の手を繋ぎとめながら、メニューを眺めては。
きっといつも、消去法でフィレオフィッシュという結論に辿り着いたのだろうと思う。

なにが食べたいとか、どこに行きたいとか、誰と会いたいとか。
自分の願いを強く主張するようなタイプのひとではなかった。

もし健康な身体で、時間もたっぷりあって、なにをしてもいいんだよと言われたら、祖母はなにをしたいと答えたかな、と考える。
―たぶん、少し困ったような、照れ笑いを浮かべるだけのような気がする。

その生涯の殆どを、自分の愛するひとの願いを静かに肯定することに費やした、棺に眠る祖母の顔を眺めて、美しいなと感じた。

そして、そういう人間だけが知る、いのちの深さというものがあるのだろうな、とも。

1931年の日本に生まれるということは、きっと相当にタフなことで、ひとには言えないような苦労も沢山してきたのだろうと思う。只々、安らかに眠って欲しいと思う。

おばあちゃん、本当におつかれさま。

具体的な祈り

祈るひとの掌は、なぜいつも閉じられているのだろう。

ときには両掌をつき合わせて、ときには両掌を握りあって、ときには両掌を地について。

それは聖なるものへの服従・無抵抗を現している、という様なことを言う人も居るし、
それは右手と左手という極をシンメトリーに重ねることで(ある抽象的な)和合を現している、という様なことを言う人も居た。

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自分の紡ぐうつわが、美術作品なのか、それとも用具なのか、今の僕は明確な答えを持ち合わせていない。

それは日本語というメッシュに掛けられるなかで規定されていく種類のもので、正直言ってモノが産まれる現場自体にはあまり関係がないことのようにも思われる。
美術作家と呼ばれようが、ちゃわん屋と呼ばれようがどちらでも構わない。そういう駆け引きに、足を取られていたくない。

ただ、出来る限り澄んだうつわを作りたいと魂の底から願うし、そのための現実的な工夫を惜しみたくない。

そうして生み出されたうつわたちが、動植物たちのいのちを静かに、たしかに抱き留め、見知らぬ食卓を、そのいのちの行き来の場を、僅かでもうつくしいものに近づけるような働きをして欲しいと願う。

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自分は、手を動かすことで祈ろうとしているのかな、と思う。

それは、どこに、とか、なにを、という類の祈りではないのだけれど、
2本の腕と10本の指を動かしながら、高くて遠いところにあるものを肯定しようと試みている。

美術にしろ工芸にしろ、相対したとき思わず息をするのを忘れてしまうような種類のうつくしさを備えたオブジェクトというのは、そういった願いの嵩さ自体が結晶化しているようなものなのだと思う。

うつくしいモノとは、みな、具体的な祈りなのかもしれない。

The Blues And The Abstract Truth

1961年2月に録音されたオリバー・ネルソンによるジャズアルバム”The Blues And The Abstract Truth”には『ブルースの真実』という邦題が付いているが、これはあまり優れた訳だとは思わない。
例えば、1966年の作品”Sound Pieces”に収録されている”Patterns”の、揺らぎながら循環をつづけるあのテーマの響きのように、彼の音楽のなかでは、透徹した幾何学と、人間的な表情の豊かさとが、自然なありかたで同居している。

それは、ブルース<の>真実というよりは、意思を持って、ブルース<と>真実、と呼ぶべき並行のように思える。

うつわという道具の根源的な機能を、自分なりに言い表そうとするとき、彼の矛盾したその音楽が頭のなかで鳴る。

うつわは、それを握るものの悦びのためにあるのと同時に、それに抱きとめられるものへの祈りのためにあると思う。

うつわには、生きているものは入れられない。
植物にしろ動物にしろ、自然から刈り狩られることで、はじめてそれをうつわのなかに抱きとめることができる。ひとは日に三度、そのちいさな棺を握ることで、自らの生を繋いでいく。

僕は、食べるもののためだけにつくられたうつわを傲慢だと思うし、また食べられるもののためだけにつくられたうつわを寂しいと思う。

あたたかでうつくしい食卓に感じる、ひととしての生の悦び。
熱量となって循環される、抱きとめられた生への公正な畏敬。

ブルース・”アンド”・アブストラクト トゥルース

それらが自然なかたちで並行する、ひんやりとあたたかなうつわをつくりたい。

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瀬川辰馬 陶展 “The Blues And The Abstract Truth”

Gallery Forgotten Dreams
〒135-0021
東京都江東区白河1-3-21 2F

3月26日(土)~ 4月17日(日)/ 12:00 ~ 19:00(月・火休)

作家在廊日
3/26(土) 17:00〜19:00
4/6(水)  15:00〜19:00
4/14(木) 15:00〜19:00